一緒に考えてみましょう。
一緒に考えてみましょう。
「聖書が教えてくれる謙遜な人ってどんな人?」
謙遜という言葉を聞くと「控えめに振る舞うこと。」「自分の能力や立場などを低く評価する。」という意味があります。
聖書が教えてくれる謙遜とは、表面的な行動のことではなく、心の態度のことで、「私は、神の前に罪人であり、価値のない者である。」ということを認め、自分は、主に助けを求めなければならないという心を持つことです。
「心の貧しい者は、幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)
聖書が教えてくれる謙遜は、救いにおいて必要不可欠なものです。
自分が、神の前に罪人であり、価値のない者であることを理解する時に、神のあわれみを求めようとします。神の救いを求めようとします。しかし、そのことを認めない者は、自らに価値があると高慢になり、決して神にあわれみを求めません。神様が、キリストを通して示してくださった救いを受け入れようとしません。
私たちは、創造主なる神様によって造られた存在です。神様のために生きていかなければならない存在なのに、私たちは、その生ける真の神を無視し、その神に逆らって自分たちの思い通りに生きようとするのです。
そして、多くの人が、「私には、神は必要ない。神がいなくても十分生きていける。」そのような高慢な心を持っているのです。
今、私たちに命が与えられているのは、生活できているのは、本当は、すべてあわれみであり、恵みなのです。本来、私たちは、神に逆らっているゆえに、滅んで当然の者なのです。
そんな私たち人間に対して、神は、愛するひとり子イエス様をこの世に送り、十字架につけて罪の贖いをしてくださいました。そうする必要がないのに。。。。
謙遜な人物は、自分が、神の前に罪深い者であり、何の価値もない者であることを認め、神様が備えてくださった救いを求めるのです。これが、聖書が教える謙遜な人物です。
次回は、この続きを一緒に考えましょう。
今日も一日、へりくだって、愛する主の救いに感謝して歩みましょう。