一緒に考えて見ましょう。
一緒に考えてみましょう。
「聖書が教えてくれる謙遜な人ってどんな人?」
聖書が教えてくれる謙遜とは、表面的な行動のことではなく、心の態度のことで、「私は、神の前に罪人であり、価値のない者である。」ということを認め、自分で自分を救うことはできない者であるから主に助けを求める心を持つことです。
ですから、前回、見たようにイエス様の救いを受け入れるためには、謙遜が絶対に必要です。
今回は、イエス様を信じた後の信仰生活にも「謙遜」は、絶対に必要だということをみなさんと一緒に考えていきましょう。
自分の罪に気づき、主の救いを受け入れた真のクリスチャンは、喜んで救い主のために仕えて行こうとします。
・・・・ところが、悲しいことに、救われたとしても信仰生活の中で自らのプライドとの戦いがあります。
私たちは、時々間違った謙遜、世が教えている謙遜を教会の中で使ってしまうことがあります。実は、その間違った謙遜の心の中は、プライドが潜んでいることがあるということを気づかなければなりません。
例えば、間違った謙遜を持っている私が、誰かに奉仕を頼まれたとしましょう。その時私は、「いや~私には、うまくできないので、上手にできる他の人に頼んでください。」・・・この時、私の心の中には、「恥をかきたくない。無様な姿を見せたくない。」という自分を良く見せたいという自尊心(プライド)が潜んでいる時があります。
逆の例えとして、聖書が教える謙遜を持っている私が、奉仕を頼まれたとしましょう。その時私は、「私は、上手にできません。足を引っ張るかもしれませんが、こんな私でもいいんですか?主のために用いられるなら嬉しいです。どうかよろしくお願いします。」・・・この時、私の心の中には、イエス様を愛しているからこそ、自分が恥をかくことよりイエス様に仕えたいという想いが奉仕へと駆り立てて行くのです。
もちろん、これは、一つの例でしかありません。私たちのプライドは、色々な場面で出てきます。いつも、自分の心をよく吟味しなければ、間違った謙遜を示している時があります。
プライドとは、本当に怖いですね。
今日も一日、へりくだって、愛する主のために仕えていきましょう。